手がかり
東京は下町葛飾区のお花茶屋という街で、ぼくは育てられました。葛飾区は東京二十三区の中でも不良少年、少女が多く、学力の低い地域と言われていて、特に中学生の頃は、友達と夕方までサッカーをしたり、近くの祭りに遊びに行ったりすると、よく怖い年上(場合によって年下)の兄ちゃんに絡まれて、非常にスリリングな思いをした事が何度かありました。ぼくは喧嘩を見るのは好きですが、するのは嫌いなので、絡まれたら相手を逆なでしないよう、言動に注意していましたが、それでも痛い思いは何度かしました。小学生の時も教室で机を投げられたり、休み時間に呼び出されてサンドバックにされたりもしました(今では結けっこう良い思い出ですが)。そんな土地柄のせいか、中学の頃の友達のうち半数ぐらいが高校を卒業したあと大学には進まずに、今では立派な社会人になっていて、エレベーター修理の仕事をしていたり、お父さんの会社(業務内容はよく分からない)を継いでいたり、二児の母になっていたり、スタジオミュージシャンを目指していたり、街の企業で商品開発をしていたりと、こういう訳なので、みんなが集まる同窓会では、その人の経験に基づいたいろんな話を聞く事ができて、凄く”ため”になります。
高校は文京区の進学校に進みましたが”自由な校風”がモットーの、制服の無い、校則もただひとつ(構内では上履きを履きましょう)だけという、ちょっと変わった公立高校だったので、そこでもいろんな人と出会いました。中学で既に三〜四股をかけていたり逆ナンパされたりしてる人とか、パチンコで毎回一万円近く稼ぐ人とか、ロックが好きで、毎日革ジャンを着て学校来る人とか、今考えると本当に変な人目白押しだなあと思います。そしてここで出会った橋本君(東京芸大の先端表現学科に進学)という、”すごく”変な奴の影響で、ぼくは美術大学に進む事を決めました。
そういう経緯を経てぼくは武蔵野美術大学の試験を受け、めでたく現役でムサビに入学しました。ここはとても環境の良い学校だと思います。例えば版画の授業を取ると、実際に作家活動をしている先生に作品を講評して頂けたり、社会学演習の授業を取るとフィールドワークのノウハウが学べ、実際にフィールドワークしたものを発表する機会を頂けたり、基礎デザイン学科の授業を取るとバックミンスターフラーの”シネジェティクス理論に基づいた造形”なるものをつくる機会を頂けたり、デザイン情報学科の授業を取るとプレゼンテーションの実践について学べたりと、非常に多岐に渡る分野で授業を展開していて、本当に素晴らしい学校だなあと思います。しかし学生はなんとなく、同じような雰囲気の人が多いな。と思っています。何故でしょうか。これはぼくにとっては大変興味深いテーマです。
普通の人と変な人
入学当初、ぼくは美術大学について、変な人の寄せ集めみたいなイメージを持っていましたが、いまでは「高校の方が変な奴ばっかりだったなあ」と、ちょっと感傷に浸ってしまいます。ムサビで変な奴はとことん変わっていて、それはちょっと天然記念物ですが、割合で行くと一割が「天然記念物」、二割が「国宝」で、のこり七割は「普通のひと」に分類されてしまうのではないかと思うほど二極化しています。「変な集合の中で、なおかつ個性的になろうとすると、結果的に普通になっちゃう」という理論を橋本君が唱えていましたが、これは言い得て妙だと思います。
話が逸れました。この「なんとなく同じような雰囲気の人しか集まらない現象」は美術大学に限らず、大学という教育システムが宿命的に背負わざるを得ない問題です。
建築
この時代に建築を学ぶにあたって「まわりに似たような雰囲気の人しかいない」というのはちょっと危ない事だと思います。これから社会は各自が各自のストーリーの中を自由に生き、それで成熟する方向に向かっていくと思いますが、建築はどのストーリーにも、例外無く関わってくる分野です。そんな分野の人が、ある一定の軸に沿ったストーリーしか知らないままプロとして仕事をし始める。という危険性を、大学の建築学科は秘めています。
個性
「自分探し」とか「本当の自分」という言葉が何年か前に流行りましたが、今ではその考え方が自明なものになりつつあります。これは欧米のキリスト教文化に基づく思想です。
社会学者の宮台真司さんが『学校を救済せよ(一九八八年学陽書房)』の中で次のように述べています。
『ローカルな共同体的システムに依存した自尊心が広がりすぎている。例えば、官僚制的なシステムの中で肯定的に評価される事を自尊心の糧にしていれば、官僚制度を変える事に動機づけをもち得るはずがないわけです。その点については、日本人が欧米のユダヤ=キリスト教文化のように、「自分だけの内面」に呼応する神を持たないことが、やはり背景にありますね。どうしても自分の属する共同体に自尊心をゆだねてしまって、共同体への利害に自分自身を同化させてしまうことが起こりがちになるわけです。』
ぼくが古い人間なのかもしれませんが「本当の自分」なんてものは無いと思っています。ひとは一人では成長できません。どんなに博識で頭が良い人も、何も知らない赤ん坊の時代があります。基本的に”知識”は環境から入力されるものです。A君がいて、B君からある話を聞き、その内容をC君に伝えたときに、A君は心の中にB君をそっくり住まわせ、それをC君に伝えますが、C君からしたらそれはB君の言葉ではなく、A君の言葉です。A君がD君からも話を聞き、B+Dの内容をC君に伝えたとしても、C君からしたらそれはA君の言葉です。それがA君の「個性」です。個性とは全て、ここでいうA君のようなパターンでしかありません。自分の中をいくらさがしても、そこから個性は見つかりません。そんなことをすればするほど自分の世界の中に閉じこもってしまい、結果的に「普通」の人になってしまいます。個性は、第三者(ここでいうC君)が関わってきて初めて生まれるものです。人と人とのコミュニティの中でのみ個性は存在します。ぼくはこれを「鏡を見ない生き方」と言っています。
排他的内向馬鹿
日本人は伝統的に共同体体質なので、すぐにはキリスト教的な「個性は自分の中にある」という価値観に馴染めない。(しかも当人がそれに気付いていない現状がある)それでも、欧米のキリスト教文化(と、対応する資本主義という考え方)が基本的なモデルとなっている今日の世界では「本当の自分」という考え方が自明なものとなっています。それまで自分を肯定してくれたはずの地域共同体や家族共同体はいまや空洞化してしまいました。すると当たり前ですが、わたしたちの心の中に取り残された「共同体意識」と「本当の自分という意識」が摩擦を起こします。その結果人々は、自らの心の中に新しい世界(共同体の代わりになるもの)を作り出し、そこに属することで実存の糧にしようとします。自ら作りだした内向世界の中に浸り、それで満足してしまう傾向が見られるということです。自分が今興味を持っているもの以外は「興味ない」と平気でつっぱねる馬鹿があまりにも多いです。
フランスの作家ユイスマンスの小説「さかしま」の中で主人公デ・ゼッサントは、「生産」を至上の価値とする世の中のすべてに嫌気がさし、こうした社会的な影響力から遠く逃れ去るため、パリ郊外にある小さな屋敷に隠遁し、部屋の内装や植物に多額のお金をかけて自らの「夢の世界」をつくり恍惚に浸ります。この小説は百年以上前にかかれたものですが、まさにこのような「さかしま的現象」が現代の日本人の精神世界の中で無意識のうちに起こっています。(しかし、デ・ゼッサントはあらゆる芸術、文学、宗教に精通し、そのなかで自ら好みのものを選び抜いていきました。現代の日本人は「何も知ろうとしない、攻撃的なデ・ゼッサント」です。これは救いようがありません)
音楽雑誌界
先日、武蔵野美術大学の講師でもある佐々木敦先生が主催している「楽しい音楽」というイベントに行ってきました。「音楽雑誌編集長大座談会」なる企画があったのですが、そこで佐々木先生が”いま洋楽が面白いのに、読者の食いつきが悪いのは何故か”と言う問題について『リスナーの音楽の趣味が固定されている。「私はこれが好き!」という具合に、趣味のクラスター化が進んでいる。』みたいなことをおっしゃってました。またここ最近ミリオンヒットが少なくなっているのに、CDの出荷枚数は減っていないという事態が今のCD界で起こっているらしいです。これらは右に述べた内向世界論にそのまま当てはまります。誤解されてしまいそうですが、内向世界がまずいのではなく、それが排他的なのがマズいのです。
開かれた社会
あらゆることに理由と説明が求められる現代の情報化社会で、いま人々が求めているのは「まったりできる閉じた場所」です。「学校を救済せよ」の中で尾木直樹氏は次のように述べています。
『いま学校設計では、オープンスペースが流行ってるんですよ。東京、地方を問わず猫も杓子もという感じで。先日も九七年四月にオープンした小学校に行ったんですけど、廊下と教室に何も仕切りが無くて、常にざわざわしてて、こどものかくれがもなければ、左右全部見られてる。こんな所だったら、僕だったら学校来れないなあと思った。』
宮台氏はそれに対し
『生き物は目に見えない、不透明性の高い場所でこそ巣を作るでしょう。三春町の桜中では、二回がロフトみたいなロッカールームになってて、そこには原則的に先生達は入らない。そこをホームベースにして、各時間ごとに自分の選択した教室に行く。休み時間にはホームベースに戻って「まったり」できるんですよ。それが重要なんですね。』
と述べています。ここでいう「オープンスペースが流行る」ということが、いまインターネット上で起こっています。ブログやソーシャルネットワーキングサービスの普及により、あらゆる個人情報(”今晩のおかず”や”好きな異性のタイプ”や”読んだ本”などなど)が公開てあたりまえになりつつあります。情報社会があまりに開かれたものになっていて、しかもそれは一見すごく正しいことのように見える。しかし人々が本当に求めているのは「人目につかずにまったり出来るホームベース」なので、どこをみても開かれまくっている社会の中、閉じた場所を探そうとすると、もう自分の内向世界に求めるしかありません。社会が開かれるほど、一人一人の心は閉じてしまいます
携帯電話
たとえば、家が無くとも携帯電話があれば、自分のアイデンティティを保ったままあちこちに移動することができます。一度知り合った相手といつでも連絡を取ることも出来るし、二度と連絡を取らないことも出来ます。人々が自由に移動しながらいろんな人と出会い、その中でたとえば気の合う人とは連絡を取り続けることで共同体を形作れるような仕組みができれば。「共同体」を内向世界の中でなく、ネットワーク上に持って行くことが出来るほどに社会が成熟すれば、ここまでぼくがいってきたような排他的内向世界の問題は解決されることでしょう。これからは、違うストーリーを生きる人間同士がいかに共生していくか、それを探ることが重要課題だと思います。
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